開基は、吉野織部之助正清。
江戸時代の初め、武蔵野で新田開拓をするには、井戸を掘り、水を確保することが条件でした。慶長16年(1611)吉野氏の努力によりこの新町地区に新田を開拓することになりました。
新しい集落に農民が移住すると、心のよりどころとしての寺や神社の新設が課題になります。吉野氏は新町地区の北側東端の五区画を寺地と定め、元和2年(1616)当山はその地に一峰院十三世、広翁伯和尚の徒、秋岩信和尚を請じて開かれました。場所が開発地の東寄りで、禅寺のところから東禅寺という名前が付いたとされています。
後年、覚海禅師(建長二十八世)を開山として勧請していますが、その間の記録が現存していないため明らかにはなっていません。
鈴法寺は、慶長18年(1613)に新町に移転し、江戸時代に幕府が保護した普化宗の虚無僧の寺でした。普化宗は明治政府により禁止され、お寺も明治28年に焼失してしまいました。
「鈴法寺」の扁額と観音堂は、明治の廃宗の際に東禅寺に移建されました。
「武叢禅林」と書かれた扁額 市の重宝に指定されている。